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きみのともだち

今日から冬期講習も再開した。

 

授業は午前9時に始まる予定だったが、その20から30分ほど前にエメ(うちの犬)が息を引き取った。

 

ずっとそばについていると言いながら、夫婦ともに授業の準備に入ったところだったので、最期の最期でそばにいることができなかった。

 

エメは私たち夫婦が結婚した1年ほど後に我が家に来た。

 

「どう、飼わない?」こんな写真が送られてきて即決。慌ただしく迎え入れることになる。名前はみんなに愛されるようにという願いとをこめてフランス語から名前をつけた。

 

途中から猫のラナも加わったが、私たちにとってはエメもラナも大事な家族であり友人であった。

 

さらに数年たって息子も家族に加わり、動物たちと私たちのつきあい方も少しずつ変化していったように思える。

 

16歳と数ヶ月、ずいぶんとエメも年をとり、耳も遠くなって目もほとんど見えなくなっていって、ここ数年は次の年を越せるのだろうかと思っていたのも事実だ。

 

そして昨年末12月30日に意識を失い、ここ数日寝たきりになって今朝を迎えたのだ。

 

亡きがらは庭に深く穴を掘って埋めた。私が授業だったので、申し訳なかったが妻が済ませてくれた。

 

ここ数日、寝たきりのエメを見ながら、うちで飼われてエメは幸せだったのだろうかとずっと考えていた。今もなお考え続けている。

 

今日、このあと家に戻ると、16年間いつもいたエメはもういない。

 

先ほども書いたが、結婚して1年後からずっと一緒だったので、エメのいない生活がうまく想像できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author:おかじま, category:時には自分のこと, 23:18
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53か…

午後になって、訃報が流れてきた。

 

平尾誠二さんが亡くなったというニュースだ。(詳しくはこちらから)

 

自分がラグビーをプレーし始めた頃に、神戸製鋼は日本選手権を連覇中。

 

僕自身のラグビー観に、大きな影響を与えたのは、紛れもなく平尾誠二その人だった。

 

学生時代に、札幌から網走まで、徹夜で車を走らせ合宿を見学に行ったこともある。

 

いろいろなプレーが目に浮かぶ。

 

数年前に、熊谷ラグビー場ですれ違ったのが実際の姿を見た最後だった。

 

一言で言えば、本当に格好いい人だった。

 

ちょっと、いや、大きなショックを受けている。

 

まだ53歳だ。

 

個人的な話になるが、僕の父親も53歳で亡くなっている。

 

そんなこともショックが大きい原因のひとつだ。

 

祖父が43歳で、父が53歳で、若い年齢で亡くなっていることもあり、自分も40を過ぎてから生きることや死ぬことについて、いろいろ考えることが多くなってきた。

 

そんな中で接した訃報だった。

 

授業のことが今日は書けない。

 

RIP Seiji HIRAO 

 

 

author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:48
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いまも記憶に残る生徒の話
 本日夏期講習は午後に中3の11日目、科目は数学と英語。夜に中1・2のターム9。

授業をしながらふと思い出した。

今まで受け持った生徒の中で一番記憶に残っている生徒のことだ。

長い間この仕事をしていれば、そりゃもういろいろな生徒がいた。

バスの運転中に頭の上からつばを吐きかけてきた女の子もいたし、何だかよくわからないがこちらの話をほとんど下ネタに変換してしまう生徒もいた。

今でもフェイスブックやツイッターなどでつながりのある生徒もいる。

そんな中、一番記憶に残っているのは、塾講師になって最初に受け持ったクラスにいた生徒だ。

まだ学生アルバイトの時代だ。

採用されてからいきなり札幌市内でもトップランクの教室の中1の上位クラスに配置された。

さすがに緊張したのだが、授業が終わってある女の子に言われた。

「私、先生のこときらい」

えっ?

まだひとコマしか授業していないのに。

女の子に振られるときだってそんな言われ方はしない。

その日から、その教室に行くのが怖くて仕方なかった。授業中の表情も、完全に私のことを受け入れない顔つきをしていたものだ。

幸いにも他の生徒たちが割と私のことを受け入れてくれたから何とかやれた。

その後、半年でその教室から配置換えされたので、「ああ、嫌われたせいなのかな。クレームでもあったのかな」と心を痛めた。

ただ、嫌われないように、という授業の仕方はしないようにしていた。

こちらが特定の生徒にこびるような授業をしていては、どんなレベルであってもものを学ぶ教室としての空間作りはできない。

新米講師ではあるが、そんなことを考えながら仕事をしていた。

精神的にはきつかったが鍛えられた。

そういう意味でも記憶に残る生徒になっている。

で、結局この教室には彼女たちが受験生になってから戻ってきた。その生徒がいる上位クラスと、さらに上の最上位クラスが受け持ちだ。

札幌市内でもかなりの上位レベルと言うことになる。

当然、その生徒とも再び顔を合わせることになった。

私としてもやはりあまりいい気分で授業に入れたわけではなかった。

まあそれでもコミュニケーションはとらざるを得ない。

「君さ、僕のこと(その頃は自分のことを僕と言っていた)をきらいだって一発目に言ったんだよ」というと、

「今でもきらい。でもしかたないもん。ワケのわからない先生に教わるよりはましだもん」

とこれまたきつい一発が返ってきた。

まあ勉強も良くできたが、生意気で気の強い、それでいてちょっとルーズな受験生になっていたのがおもしろかった。

長い塾講師生活の最初に出合った生徒の話。

ま、そんなところで。


author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:27
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法事からの日曜講座、という一日
 今日は日中、父(先代の塾長)の十七回忌だった。

明日が命日だ。

おかげさまで、この日を迎えられたことを皆さんにほんとうに感謝するしかない。

1999年の7月6日、この日から、いやこの日の前後から始まった喧噪は、忘れたくても忘れられない。

父親を亡くした悲しみよりも、周囲への怒りが自分の中に渦巻いていた。

今も絶対に許すことのできない相手もいる。

ただ、16年たった今となれば、多少は冷静に振り返ることのできる自分もいるのは事実だ。

この年月、通ってきてくれた生徒たち、今も通う生徒たち、そしてその子供たちを岡島学習塾に預けてくださったお家の方々に感謝したい。

この塾をつくりあげ、自分の身を捧げた父の背中にはまだ追いつけないだろう。

だが、自分もこの塾で走り続ける覚悟を新たにした一日だった。

author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:20
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雨があがったあとに
 ふと思い出したことがあって。

小学4年生の時、僕はいじめにあったことがある。たぶん、いじめた側は覚えていないと思う。

その日、担任の先生が出張か何かで不在だった。かわりの先生もおらず、そのとき大人は教室の中にはいなかった。

クラスのボスのような男子が、僕を含め数名の鈍くさそうな子に命令し、パンツを脱がせ、教室の中を四つん這いで歩き回らせた。

いやでいやでたまらなかったが、その頃の僕は太っていて(今もだけど)鈍くさく、逆らうことができなかった。

タイミングが悪いというか、そのとき、僕のパンツは汚れていて、当然そのボス格の男子に見つかった。

その後はもう最悪で、じつはその後数日の記憶は飛んでいる。ただただいやな思いをしたことだけが、今も心に澱のように沈み込んでいる。

今もそうかもしれないが、僕はあまり友達に好かれるタイプではなかったのだろう。

小6の頃から中1の頃にかけて、断続的に周囲に無視されたこともある。仕掛け人はさっきのボス格の生徒だ。

こちらは特に何かしたわけでもない。わけがわからないが無視されたのだ。

鈍くさいはずの僕が、勉強面で目立つようになった。

中学生というのは、勉強ができる生徒があまりよく思われないときがある。

下に見ていたやつが目立ってきて、生意気に感じられたのだろう。

やっぱりこれもきつい経験ではあった。

どうやって乗り切ったのか、これも今となっては思い出せない。

ただ、心がけていたことはあって、それは覚えている。

まず、いやな場面やいやな相手とは距離を置くこと。クラスの活動などで無理なときもあるが、こちらからはどうしても必要なとき以外は接しない。

周囲にはフェアに接すること。周りの人間は自分を無視するが、こちらは無視するようなことがあってはいけない。誰に対してもフェアに。そうすることで理解してくれる人も出てくる。そうした人たちとうまくやるようにすればいい。

そして、これが一番きついかも知れないが、孤立することをおそれないこと。

無視されている間は孤立するのはしかたがない。時間が解決することもある。教室では本を読んだり自習したりしてやり過ごしていく。

もうひとつ。

さっきのフェアな態度とも関係するが、自分がしんどい思いをしたのだから、今度は他の人を無視したりいじめたりすることは絶対にしないこと。そうするととで自分が成長することができると考えたい。

自分がフェアな態度でいて、誰から見ても「悪くないよな、あいつ」と思われるようにしていく。そうやって自分を保ってきちんと生活していくことが、実はいじめる側には復讐となるはずだと思っていた。

ただ、今のいじめのように、金銭がらみの脅しのようなことがあったときにどうすればいいかは僕の経験からはうまく言うことができない。

やっぱり時代は変わってしまっているのかもしれない。





うちの親はたぶん知っていたのだと思う。この地域でこの地域の子どもたちを集めて塾をしていたのだから。

けれど、何も言わなかった。

ただ、中学校に入るくらいの時期に、「おまえをいじめるようなやつがいたら、自分の命と引き替えにでもぶっ倒しに行く」としきりに言っていた。

まあ、今こんなことを言うような親だとちょっときついか。

でも、親は自分の子どもを信じてやることが何よりも大事なんだと今は考えている。

その信頼関係の中で壁を乗り越えていく。






きついことがあって。


ふと思い出したのだ。雨があがったあとに。

author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:48
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too young to mature
本日中1、中3理社オプション。県民の日のため小6は休講。 

中1国語は三好達治の詩について。解説が少し残ってしまったので、次回に。 

中1英語はprogram8のワーク演習。

後半になって集中力が切れてしまった生徒がいたのが残念なところだ。




 実は、今日で40歳となった。 

父(先代の塾長)が死んだあと、塾を引き継いだのが27歳から28歳にかけての時期だった。

 その頃からしばらくは、「若すぎる」「世間知らず」「俺の若いときはもっと…」と直接言われたこともあったし、あからさまに見下されたり馬鹿にされたりしたこともあった。 

自分の成熟度が低いからだと考えて努力を重ねたし、一方で、「早く歳をとらねーかな」とずっと考えていたこともあった。 

でも、こうしてある一定の年齢に達して思うのは、けっきょく自分は年齢で内面の何かが変わるような人間ではないということだ。

 年齢にかかわらず研鑽は積まなければならないし、年をとったからといっても老け込む歳でもないのだし、それを何かのいいわけに使うようなことはしたくない。 

反省はしても後悔はしないとはよく言われることだが、大事なのは今ここで、その瞬間を生ききることだと考えるようになっている。 

だって、毎日つまらないとか、いやだななんて思いながら生きていきたくはないからね。


 
author:おかじま, category:時には自分のこと, 23:15
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さぼりのおもいで
 高校生の頃は毎年、春休み、夏休み、冬休みと、大手予備校の講習会に参加していた。

その頃の大手予備校なので、今のように地元や近辺には存在しないので、大半は都内まで出かけていった。

四谷の怪しい中華料理屋で毎日中華丼を食べたり、ばったり駅で中学高校の先輩にあったり、授業以外にも楽しいことはいくつかあった。

でも、まあ、今だから白状すると、予備校の授業をさぼって出かけるのが一番の楽しみだったりしたのだ。

高校生なのでそんなに金も持っていないので、一日中、神田の書店街をぶらぶらするとか、そんなことばっかりだった。

昼飯を抜いて金を浮かせて映画を見るなんてこともあったが、何せ高校生、食欲も満点なので、吉野家で大盛りを頼むのも楽しみのひとつだったんだよね。

そうそう、地元では豚骨ラーメンを食えるところもそんなになくて、お茶の水駅近くのやすいラーメン屋で豚骨ラーメンを初めて食べたのもこの頃だった。

サボりで出かけて一番時間をつぶせたのが、東京ドームにくっついている野球博物館で、ここにはほんとうによく通った。

ジャイアンツの2軍の試合を外野席で見て、飽きたら野球博物館出しばしのんびりするというのがお気に入りのコースだった。

いろんな展示物や映像があって何度行っても飽きなかったのだ。




まあ、さぼってばかりではなく、勉強もそれはそれで真面目にやったんだけど、なぜかこの時期のことは、予備校の教室ではなく、自分一人でぶらぶら歩き回っていた場所のことをよく思い出す。

だからといって、今、塾の生徒に授業をさぼっていいよなんていうつもりもないんだけどね。

さぼったら許さないんだけどさ。

それでも、ね。

ちょっと横道にそれることも、回り道をすることだってあるんじゃないかなってこと、かな。

author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:56
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ひとりたび
今回は僕自身の高校受験の後の話。

高校受験が終わって、中学校の卒業式の後、京都や奈良へ旅立った。

4泊5日の一人旅だった。

お金は親に出してもらっての旅行だから、甘えているっていえば甘えた旅行なんだけど、それでもお金以外は計画をたてるのも宿の予約も全部自分でやった。

その頃の深谷市内の中学校は、修学旅行が京都や奈良ではなかったから、京都や奈良は家族旅行以外では初めて。

家族と一緒では味わえない体験だった。

道に迷ってもひとり。

飯を食うのもひとり。

もちろん宿の部屋もひとり。

世間知らずの中学3年生にはほんとうにいい体験だった。

送り出してくれた両親には感謝している。

僕は第一志望の高校には合格できなかったが、この旅行の間にそんなことはどうでもよくなった。

意識的に吹っ切れたのではなく、旅をする中で、第一志望だろうが第二志望だろうがどうでも良くなってしまったという感じだった。

そういう意味でもいい体験だった。

まあ、自分がいい体験をしたからといって同じことをしてみろとは今の中3生にはなかなか言えない。

でも、チャンスがあるならやってみたらいいのになって思う。

今は春休みの宿題が各高校からけっこう出るから、なかなか時間がとれないだろうけどね。

でも、ディズニーランドなんかに行くよりはよっぽどいい体験になるだろう。

高校入学前の春休みを勉強だけに費やすよりもいい体験になるだろう。勉強時間を削る価値があると思う。

その人にとって何が価値ある体験になるかは本来わからない。

価値があるからやってみるのではなく、その体験が、後から自分にとって価値あるものだったと気付くような体験をするのがいい。

僕にとっての高校入学前のひとり旅は、今から考えるとそんな体験だった。

author:おかじま, category:時には自分のこと, 23:53
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第2志望の人生
 今まで生徒には話したことのないことを書こう。

受験の前後の時期にこういうことを書くと誤解されるかもしれないし。

僕は自分の受験では、高校受験、大学受験ともに第2志望の学校に進学した。

就職も、実は最初から塾に勤めようとは思っていなくて、就職試験はすべて落ちて、親父に頼んで実家に戻って岡島学習塾の講師となった。

そう、僕の人生は今のところ、第2志望の人生なのだ。

だから、がんばれば絶対に自分の希望がかなうとは僕の口からは言えない。

努力は裏切らないなんてことも言えない。

じゃあ、僕はがんばってこなかったか。

そんなことはない。

「自分なりに」なんて甘いことは言わない。

本当に努力して、がんばったんだ。

それでも結果は出なかった。ということだ。

でも、第2志望の進学先で、いつも僕が思っていたこと。

それは、「その場その場で自分のベストを尽くす」ということだ。

今、この1日、この瞬間をどれだけ真剣に楽しめるかってことでもある。

決して僕は運命論者ではないのだけど、第2志望の場所に自分が今いるなら、それはそういう運命として考えて、自分のできる限りのことをしないと面白くないなと考えていたんだ。

大学時代の最初の自己紹介の時、「私はこの大学に来たくなかった、ここしか受からなかったのでとりあえずこの大学に今はいるが、受験し直して自分の希望をかなえてみせる」っていうことを言った人がいた。

みんな引いてたね。

で、そいつはいつもつまらなそうな顔で4年間同じキャンパスに居続けた。

僕にはそんな自己紹介はできないし、第2志望であっても進学を決めたのだから、とにかくやれることをやってやろうと思っていた。

そういう第2志望の人生だけど、僕は知ったことがある。

真剣に生きないと、第2志望の人生はつまらないんだ。

がんばってがんばってやっていかないと、何にも面白くなくなってしまう。

努力は裏切らないなんてことは言えないってさっき書いたけど、

それでも結局は、努力しないと第2志望の人生は充実したものにならない。

第1志望の人生を送れるように本気で努力しないと、第2志望の人生はみじめなだけだ。

夢をかなえるために努力しないと、夢がかなわなかったときに後悔だらけになる。

そうそう、僕はこの年になっても、「青春時代なんて昔のことさ」「ああ、あの時代に戻りたいな」「あのときは楽しかったな」って過去を振り返ることがほとんどない。

そりゃ毎日のようにきついこともつらいこともいっぱいあるんだけどね。




『人生とは理想と夢を持って それにどこまで近づけるのかという冒険』
『しかし その理想と夢が叶うことは殆どない』
『夢は叶わなくても それを追い続けることが生きる力になるのだ』
                           イヴィツァ・オシム

author:おかじま, category:時には自分のこと, 22:12
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そういう日
 尾崎豊の作品の中では、「傷つけた人々へ」が一番好きだ。

アルバム「十七歳の地図」B面の4曲目だ。

シングル「十五の夜」のB面でもある。このドーナツ盤は今でも持っている。

あとは「ダンスホール」が好きな曲だ。アルバム「回帰線」A面の4曲目。

中学生の頃、友だちといつも聞いていた。

もちろんカセットテープで。

浪人生のとき、「BIRTH Tour」2日目の横浜アリーナのライブに行った。

アンコールのあとに「十五の夜」をギター一本で演奏してくれた。

ものすごく感動した。

1992年の4月25日、

一人暮らしを始めたばかりの部屋で衝撃を受け、しばらくぼーっとしていた。

そういう日。

author:おかじま, category:時には自分のこと, 10:05
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